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古高俊太郎bot@chietame

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古高俊太郎(1829-1864)の実像を知るための史料を、現代語訳してお届けしています。現在は古高逮捕時の供述書「新撰組より差出候書付写」(国会図書館蔵)と古高に宛てた知人からの書翰(『殉難国士古高俊太郎伝』所収)を使用。

京都 

そこで有栖川宮家へ伝えたところ

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2017年03月21日(火)

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古高俊太郎bot @chietame

そこで有栖川宮家へ伝えたところ、粟津駿河守と前川大宰大監(茂行)より長州家老宛の書面、および長門宰相父子(毛利慶親・定広)への宮の御直書を(寺島忠三郎に?)御渡しになったらしい。これらを児島百之助(寺島)が国元へ持ち下り、当年3月8日(1864年4月13日)ごろ帰京したそうだ。

17:09:07
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古高俊太郎bot @chietame

だから一つにまとまり、すべて三条実美を将領とわきまえて仲たがいしないよう、ひそかに有栖川宮様より命令して頂きたいと、本年(文久4年、のち元治元年)正月(1864年)、児島百之助(寺島忠三郎)が(古高俊太郎へ)前記の粟津駿河守(義風)への斡旋をしてもらえないかと依頼してきた。

16:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

周防国の三田尻において、七卿に附属する浪士たちがこれまでいろいろな意見を言い合い、今後どうしたらよいか判断に苦しんでいる。

15:09:05
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古高俊太郎bot @chietame

そこで児島百之助(寺島忠三郎)が、有栖川宮へ周旋してもらえないかと(古高俊太郎に)つよく迫ったので、(古高が)粟津駿河守(義風)へ依頼した。すると粟津が有栖川宮のお気持をうけて、ただちに井原主計へ書翰を送った。するとほどよく鎮まった。これを(古高は)のちほどうかがったそうである。

14:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

そのようなことがあったら同勢(?)はさらに評判があがり、変動がはかり知れないので、適切に切腹を止めて欲しいと伏見長州屋敷の留守居役より当地(京都の)留守居役へ要望があった。

13:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

すると一旦は許可が下りそうな様子と伝わったのだが、結局そうならなかった。そのため(京都南郊の)藤ノ森で井原主計と副使(名前は知らない)が割腹しなければならない事態になった。

04:09:18
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古高俊太郎bot @chietame

筑前藩の周旋方の北岡勇平より話をうかがったところでは、長州入京については色々朝廷で意見が述べられているようだけれども整っていない。そうこうしていると、昨年(文久3)12月(1864年1~2月ごろ)、長州家老の井原主計が(朝廷に)申し開きのため東上し入京を執奏の勧修寺家へ上書した。

03:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

そのころ(有栖川宮出身の)日光宮(慈性)が御上洛中だったので、同宮からその件を依頼したいと思っていたら、有栖川宮家臣の粟津駿河守(義風)と前川太宰大監(茂行)に近づけたので、駿河守へ談じ込んだ。その後右の件を会って聞いてくれると(返事をもらったのでそれを)百之助に告げ知らせた。

02:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

そののち百之助(寺島忠三郎)より依頼したいことがあると話があったので訪問した。すると七卿が長州へ脱走したことについて、毛利家のなかでも賛否あり、仲たがいして混乱が起きた。だから鎮静させたい。有栖川宮は(古高には)「御由緒柄」なので便宜がはかれるだろう、周旋してほしいと談じてきた。

01:09:10
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古高俊太郎bot @chietame

かねて大高又次郎方にて親しくなった毛利家留守居副役の児嶋百之助(変名は寺嶋忠三郎といい、一件方と唱えて京都にいる)と面会し、さきほど明らかにした(毛利家との)続柄の次第を申し明かし、変動(八月十八日の政変)に付き心配の微意を申し述べて引取った。

00:09:08

2017年03月20日(月)

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古高俊太郎bot @chietame

(以上のような)事情をもって、昨文久3亥年8月(1863)の京師変動(八月十八日の政変)後、長州の安否を捨て置きがたく思い、同月28日だったか、河原町長州屋敷へ見舞いに参上した。

23:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

(そして)前記した通りこの女は(松本)多門と再婚した。元治元年(1864)現在77才で存命である。多門との間にできた実子松本為蔵の木屋町三条上ル町の家に同居している。

22:09:20
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古高俊太郎bot @chietame

その後、(古高俊太郎の母方の継祖母は)同人(毛利広鎮)の世話をうけ、一子を出産したのち徳山毛利家を辞去した。ちなみに出産した男子は、毛利家の一門の堅田家の養子となり、駿河守(元琦)と申したが、昨年(文久3年)5月<1863年>死去したらしい。

21:09:07
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古高俊太郎bot @chietame

松本多門の後妻(俊太郎の母方の継祖母)は、大炊御門殿の家来林靱負の娘で、その若年のころ、徳山毛利家の隠居(先代)毛利兵庫頭広鎮(もと8代当主、長州萩毛利家のあとつぎ定広の実父)の奥向へ奉公していた。

20:09:07
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古高俊太郎bot @chietame

俊太郎の母は、その弟(御大工頭中井深三郎の家来古高為三郎)の家に住んでいる。その父(俊太郎の母方の祖父)は、広橋殿の家来松本多門と申す(先年亡くなった)。

19:09:10
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古高俊太郎bot @chietame

去ル文久2戌年8月(1862)、前記した升屋喜右衛門の死跡(しにあと)の相続人となり、炭薪(販売)を生業とし、下女とともに家内2人で暮らしていた。

18:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

弘化4未年(1847)、(父古高周蔵は)毘沙門堂御門跡の未勤家来に召し抱えられ、安政6未年2月(1859)、亡くなった。(俊太郎は)この者の跡を相続し、堺町丸太町下ル町へ転宅した。

17:09:05
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古高俊太郎bot @chietame

四条通小橋西へ入ル真町の舛屋喜右衛門と申すものである。元治元年子(1864)の本年には、数え36歳になる。右の者の父は、大津御代官の石原清左衛門の手代古高周蔵と申す。弘化2巳年(1845)中に退職し、竹屋町烏丸西へ入ル町に住居致した。

16:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

一橋殿、水戸殿、因州殿、備前が長州に同意し、中川宮が薩摩と御合体のように拝聴したと申しました。

15:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

筑前藩士中村円太が薩州の藤井印節(良節?)と対面した際、(藤井から)徳川氏の政道が因循姑息なので、やむをえないこととして、幕府の蔵をこの方(薩摩?)へ申し請けると(聞いたと)中村より拝聴しました。

14:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

「いよいよ近々に中川宮を放火する予定なので、いま大高又次郎の家へ行ってその相談をしようとしたら、急に考えることがあって、実行するにはその時節が少し早いと思うようになった。だからしばらく中止することにした。そこでこの刎玉は預っていてほしい」。ゆえに刎玉をひとつ預りました。

13:09:15
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古高俊太郎bot @chietame

(本年)6月4日(1864年7月7日)、因州池田家の家来の山部隼太がやってきて以下のことを言いました。

04:09:17
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古高俊太郎bot @chietame

甲冑は加屋四郎など複数の人より預りましたが、その人たちをいちいち覚えておりません。

03:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

長州の武士は、来たる本年(元治元年)8月(1864年)までに、大和国龍田の法隆寺へ出張の予定です。それは因州・備州(備前)の両池田侯の手助けで、長門宰相父子(毛利慶親・定広)が(朝廷へ)お詫びするための談判のためだと申しておりました。

02:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

本年(元治元年)正月(1864)、島津三郎(久光)が、中村源吾を使者として石清水八幡社の僧忍海へ主上(孝明天皇)を調伏する祈祷を依頼し行法しました。だから因州の勝部龍男が中川宮(尹宮)の家臣だといつわって近づき、詳しく修法を見分した上で、忍海を討ち果たしました。

01:09:10
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古高俊太郎bot @chietame

楢林正水は、本年(元治元年)正月下旬より(1864年)上京致しまして、長州から兵を200人ほど呼び寄せるつもりにしていましたが、予定通りにいかなかったので、伊勢国へ行きました。

00:09:08

2017年03月19日(日)

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古高俊太郎bot @chietame

元山太郎と吉山六郎は、近江水口へ行きました。去年(文久3年)8月ごろ(1863)には、大井貞吉とともに私の宅におりました。

23:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

安田、川上、備州の山中の3人は、但馬銀山一揆(生野の乱)の首領、沢三位(宣嘉)殿を探しに四国へ渡海いたしました。

22:09:23
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古高俊太郎bot @chietame

久坂玄瑞は、現在義助(よしすけ)と改名しています。本年(元治元年)2月2日(1864年3月9日)、初めて面会しました。長州屋敷でのことで、水戸の山口(徳之進?)さんが同席しました。

21:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

木大砲や焼耐薬は、いずれも昨年文久3年8月(1863)河村半蔵から預ったものです。これは中川宮(尹宮)を焼き撃ちするために用意したものです。

20:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

大高又次郎は10年前から馴染(なじみ)です。長州の具足師なので、その河原町屋敷に住んでいましたが、本年元治元年正月(1864)から私の家の裏の借家に住まわせております。現在は因州池田家の者と申しております。

19:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

昨年文久3年(1863)より私の家に泊まっている浪人の名前は次の通りです。萱野嘉右衛門(肥後)、加屋四郎(肥後)、河村半蔵(肥後)、安田(名前は分かりません、肥後)、黒瀬市郎助(肥後)、宮部俊蔵(肥後)、前田(名前は分かりません、丹波園部)、小山小三郎(但馬生野)。

18:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

そこで有栖川宮家の諸大夫の粟津駿河守義風に取りつぎました。そのお礼として、銀15枚を毛利家の京都留守居役の乃美織江より贈られ、受けとりました。

17:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

文久3年10月(1863)、長州の児嶋百之助(寺島忠三郎)という方に初めてお目にかかりました。その後またお目にかかったおりに、毛利家の騒動に関して有栖川宮へ取り鎮めをお願いしたいと依頼がありました。

16:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

安政6年8月(1859)より日光御里坊に勤仕しております。文久2年閏8月14日(1862年10月7日)、升屋の養子になりました。

15:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

住所は京都四条小橋上ル真町です。舛屋喜右衛門と名乗っています。日光御里坊にも勤めています。元治元年(1864)現在、数えで36才です。生国は近江国栗太郡古高村です。

14:09:11
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古高俊太郎bot @chietame

・・・まずはご返答(まで)。ほかにもお話し申し上げたきことがありますので、明朝おうかがいしてお目にかかりいろいろ申し上げます。頓首。(年月日記載なし)

13:09:13
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古高俊太郎bot @chietame

19.経鷹(ふるたか)様、杉山(松介)です。山科先生の国行の事、ご親切にお聞かせくださり感謝申し上げます。この件は先日より内々にうかがっておったことで、実は国候(侯?)の上京の事をうながす策であるという趣と、承知しております。・・・

04:09:19
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古高俊太郎bot @chietame

・・・明日でもよろしければ、未刻(午後2時ごろ)ののちのご都合のよいときにお越しください。以上のことをお伝えいたします。なお詳しくはお目にかかったおりに申します。早々頓首。(元治元年)3月7日(1864年4月12日)。

03:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

・・・今日は当番ですが、お急ぎの用件でしたら、夕暮れ後、(予定を)調整し帰宅いたしますのでお越しください。ただこのごろは不穏な情勢なので、お泊りになられるつもりでどうかお越しくださるようにしてください。・・・

02:09:10
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古高俊太郎bot @chietame

18.古高様、前川(大宰大監茂行)です。暖和の季節です。いよいよご安康にて奉賀いたします。さて昨日はお越しくださったのに、御用にて外出しており、お目にかかれず残念の至りでした。留守宅(を守っている者)へお申しくださった件は、いずれも承知いたしました。・・・

01:09:10
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古高俊太郎bot @chietame

・・・(追伸)粟津(駿河守義風)様へよいようにお伝えを願います。先夜は失敬、恐縮、多罪を謝ります。(年月日記載なし。ただし内容から元治元年3月中旬ごろか=1864年4月中旬ごろか)

00:09:09

2017年03月18日(土)

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古高俊太郎bot @chietame

・・・かつ二条家(関白二条斉敬)に(関係者を)潜入させる件などの事もよいようにお願いいたします。いずれも杉山(松介)ならびに川島小太郎(入江九一)と申す者と話し合いを願います。(私は)これから下坂します。・・・

23:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

17.古高様、正木(太三郎か。不明)です。まずもってお変わりなくお慶び申し上げます。しからば先夜は大酔いし、すこぶる失敬いたしました。あしからずお許し願います。先日お願いしました豊島方の事は、いかにもよろしくお願いします。人選については取り調べ、おって申し上げます。・・・

22:09:19
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古高俊太郎bot @chietame

・・・今日中に荒木氏(不明)へ差し出しましょうか。またはあなた様へ差し出しましょうか。なにとぞご指示を願い上げます。他の件はお目にかかってからにします。終局の前日に。

21:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

16.経鷹(ふるたか)様、北洲(不明)です。先夜は(わざわざ)お越しくださったにもかかわらず、何のおかまいもいたさず恐れ入っております。その際、お噂を申し上げました御殿へ差出す一樽の件ですが、いかがお手数くだされますでしょうか・・・

20:09:09
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古高俊太郎bot @chietame

・・・ので、よいようにご通達くださるようお願いします。かつ粟津(駿河守義風)の件ですが、一昨夕に帰京しましたので、そのようにご承知ください。その他のことはお目にかかり申し上げます。とり急ぎいつもの略文です。ごめんください。(元治元年)4月4日(1864年5月9日)。

19:09:11
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古高俊太郎bot @chietame

15.敬愛する布留高(ふるたか)様、白梅軒(不明)です。前略ごめん(ください)。昨夜はおこしくださってお話をうかがえ、大きな喜びです。言葉になりません。そのさいにお示しの件ですが、遅れてしまいましたが急ぎ別紙一封をお手もとに差し出します・・・

18:09:08
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古高俊太郎bot @chietame

13.古高様、正木(太三郎か。不明)です。あなたからのお手紙を拝見いたしました。大黒屋(今井太郎右衛門)方でご面会の趣、承知いたしました。いずれもお目にかかってすべて申し上げます。来客中ですので早々に返書いたします。14日(年月不明)。

17:09:06
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古高俊太郎bot @chietame

・・・急いでいるので簡潔な文章になっております。ご用捨下さるよう願います。(元治元年)4月7日(1864年5月12日)。※前川大宰大監茂行は、有栖川宮家諸大夫。

16:09:13
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